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大阪平野のおいたちが、なんとなく好きです💛

2022年04月11日

今から30年ほど前、担当していた番組の会議で
ある視聴者からの問い合わせのハガキが読み上げられました。

「大阪の阿倍野の街に南北に続く長い崖が有りますが、あれは何ですか?」

というもので、スタッフ一同「え? 大阪平野に崖なんかあった?」と
首をかしげたのですが、しばらくして皆、「上町台地や!」と気付きました。
「坂ではなく崖や!これはおもしろい!」と思った私は、さっそく阿倍野へ。

阿倍野の交差点を西に400mほど、旧市大病院の北西角の坂道を下ると、
水がしたたり落る龍神様の祠がありました。
そこからあおぎ見ると結構な段差の崖が南に続いているではありませんか。

「へ~、これが上町台地の崖か💛」

上町台地を崖で認識したのは初めてで、感動でした。
夏の盛りの猛暑日でしたが、私は缶ビールを片手にルンルン気分で
崖をたどって南に歩き、「あっ、ここにも崖がある」「あっ、これも崖!」
と呟いているうちに手塚山古墳でくたびれて、住吉大社あたりで台地もかなり
低くなってきたので、およそ5kmの旅も「ここでおしまい!」と、
お参りをして帰ることにしました。
この日から、私は上町台地を背骨とする大阪平野が好きになってしまいました。

実はこの崖、およそ7000年前の波打ち際なんです。
崖の下は海だったということです。

下の図は、国土地理院ホームページ掲載の航空レーザ測量による
デジタル標高地形図です。
これを見ると、上町台地が一目瞭然です。

大阪城を先端に岬のように南に伸びているのが上町台地です。
このデジタル標高地形図の水色と緑の境界線を見ると、
約7000~4000年前、縄文時代の陸地をイメージすることができます。

水色の部分が海であったということです。

1959年から始まった放射性炭素測定の地質調査による研究成果を書した
「大阪平野のおいたち」(青木書店)によると、大阪平野の発達過程を
以下の様に区分しています。
(放射性炭素測定の場合、西暦1950年を基準年として年代をさかのぼります)

■7万年前~1万年前【古大阪平野の時代(ウルム氷期)】

海水面は現在の130mほど下で、瀬戸内海の海底をナウマンゾウや
スイギュウやシカが闊歩していました。海底を闊歩というと変な
表現ですが、底引き網漁でそれらの化石が引き上げられています。

■約7000~4000年前【河内湾の時代】

気温が上がり海水面は現在よりも高くなり、上図のように
上町台地の東に河内湾が現れます。
台地東側の森之宮や今里、台地西側の御堂筋あたりの
縄文時代の地層からはイルカやクジラの化石が発掘されています。
森之宮で発見された貝塚の縄文後期(約4000年前)の地層は
海で生息するカキなどの貝類。縄文晩期(約3000年前)は
淡水で生息するセタシジミなどの貝類で構成されます。
これは河内湾の淡水化を意味します。大阪湾の海流が上町台地に
ぶつかって砂州を台地の北端から現在の神崎川あたりまで押し出し、
河内湾の入口が狭まって淡水化したようです。

■約3000~2000年前【河内潟の時代】
(紀元前1050~前50年)

現在大阪市の南を東西に流れる大和川は江戸時代に作られたもので、
以前は八尾や平野から北上し、河内に流れ込んでていました。
河内湾は、淀川と大和川が運ぶ土砂で埋め立てられてゆき、
干潟へと変わっていきます。
日本書紀に書かれた、カムヤマトイハレビコ初代神武天皇となるの
東征のくだりで、大阪湾から河内国の草香村(東大阪市日下)に
たどり着くあたりの描写は、まさにこの時代の地形を想像すれば
いいのではないでしょうか。
「三月の丁卯の朔丙子に、遡流而上りて、徑に河内国の草香邑の
青雲の白肩之津に至る」

■西暦150~350年【河内湖の時代】

古墳文化の始まりです。4世紀末には仁徳天皇が上町台地に
難波高津宮を築き、大阪を都と定めて国内流通の中心とし、
倭国を統一していったとされています。
仁徳天皇は大掛かりな土木事業をいくつも行っています。
その一つが難波の空堀。難波の洪水対策と河内の開発のために
上町台地を東西に掘削。河内の湖や湿地帯の水を海に流す運河を
作りました。(現在の天満川から大川のあたりと推測されている)

では最後に、上町大地の北端から南へ観光案内をさせていただきます。

■上町台地の北の端には石山本願寺がありました。後に豊臣秀吉が
大阪城を建てます。西は海、北は川、東は湿地帯、さらに台地の上
という築城には最高の立地です。

■大阪城の南には難波宮跡公園があります。飛鳥時代~奈良時代の宮殿、
日本の都城があった場所です、

■その南に仁徳天皇を祀る高津神社。

■その南に生國魂神社。神武天皇の東征の際、天皇が生島神・足島神を
鎮祭したのが創建とされています。かつては摂津国難波碕(難波宮)
にありましたが、大阪城築城とともに現在地に変座。

■生國魂神社から南は、台地の下の松屋町筋にお寺がずらりと
並んでいます。台地の上に登る坂はそれぞれ名前があり、
総じて天王寺七坂と呼ばれています。風情のあるパワースポットです。

■台地の上に行くとそこは夕陽丘という町で、その南の大阪星光学院の
校庭には江戸時代に大阪随一といわれた料亭、浮瀬(うかむせ)亭跡の
石碑があります。アワビの器にお酒を入れて海原を行き交う白帆を
眺める風情が人気であったそうです。江戸時代も海が近かったようです。
夕陽丘というだけに、沈む夕日も絶景だったに違いありません。

■その南が四天王寺。五重塔と西門を結ぶ直線の西の果てには極楽浄土が
あるといわれていました。平安時代は、西門から現在の国道25号線に
あたる坂道を経を唱えながら下って海に向かい、入水往生するのが
流行ったようです。

■その南が茶臼山。石山本願寺を攻めた織田信長も大阪城を攻めた
徳川家康もここに陣を張りました。

■その南が大阪市立美術館。美術館の玄関にある階段は、上町台地の
段差を利用しています。玄関に立って西にそびえる通天閣を眺めながら、
7000年前にはそこをイルカやクジラが泳いでいたのだと思うと、
楽しいもんです。

■その南の崖の下が、先述の龍神様と上方演芸発祥之地「てんのじ村」。
そして、かつて遊郭があった飛田新地があります。
飛田新地の東側は崖で、私が30年前に歩いたころは、崖の階段を登り
きったところに遊郭によくある門の跡でしょうか、小ぶりな石の門柱が
階段の両端に残っていました。
台地の上の阿倍野再開発で、その石柱は撤去されてしまいました。

■その南は古墳が点々とあり、海の神様、住吉大社に着いたところで
この旅も終わりにしましょう。
住吉大社の南に細井川(細江川)という小さな川が流れていますが、
この辺りは昔、「住吉の細江」と呼ばれた入り江であり、住吉津
(津は船着き場)がありました。住吉大社の境内に太鼓橋が架かる
大きな池がありますが、この池は入り江のなごりといわれています。
住吉大社には一寸法師伝説があります。老夫婦が住吉の神から子供を
授かり、やがてその子は、住吉津からお椀の船に乗って大阪湾に出て、
淀川を遡って京の都に行ったということです。

さて、もう少し南の堺市に大阪平野を開拓した仁徳天皇の古墳が
ありますが、またの機会に。ではでは。疲れた・・・